第1回 日本初の都市間電気鉄道開業から、世界水準の甲子園大運動場開設まで

1905(明治38)年~1924(大正13)年

阪神電車の誕生

阪神電気鉄道(株)は、今から119年前の1905年4月12日、日本初の高速広軌の都市間電気鉄道として、大阪〜神戸間で産声を上げました。すでにその30年前に阪神間の鉄道は開通していましたが、それとは競合しないものとして免許を取得し、開業にこぎつけたのです。路線は、阪神間に点在する集落を結ぶ形で敷設されたため、全体にカーブが多く、駅数も今とほぼ同じ。大阪〜神戸間の所要時間は90分、12分間隔での運行でした。当初、大阪側のターミナル・出入橋駅は、現在のハービスOSAKAの西側にありましたが、その翌年には路線を東へ延伸。現在のハービスENTの場所を梅田駅とします。

御影駅周辺

その後1910年には、他社への対抗策として阪神間増設線を構想。その一部である尼崎〜千鳥橋間が1917年に認可され、1924年に大物〜伝法間、伝法〜千鳥橋間を相次いで開業。2009年に開通する阪神なんば線の基礎となりました。

開業時の千鳥橋駅

鉄道開業の年に早くもレジャー事業に進出!

阪神電気鉄道(株)では、開業当初からレジャー事業への関心が高く、開業年の夏には関西初の海水浴場を打出に開きます。1907年には香櫨園遊園地の営業を開始するとともに、海水浴場を香櫨園浜に移設。この海水浴場は1965年まで存続しました。1916年には、遊休化していた鳴尾競馬場を借り受けて鳴尾運動場を開設。二つの野球場を併設し、翌年8月には全国中等学校優勝野球大会が、それまでの豊中球場から会場を移して開催されることとなりました。

ところが、年々高まる社会の野球熱に、鳴尾運動場では観客を収容しきれなくなっていきます。おりしも、武庫川の河川改修の一環で、支流の枝川・申川が廃川となったことから、阪神電気鉄道(株)はその敷地を購入し、後に竣工年の干支にちなんで「甲子園」と名付けられる一帯の開発に乗り出します。そして、わずか5か月足らずの工期を経て、1924年8月1日、総収容人員8万人の世界水準の野球場「甲子園大運動場」が誕生、同月13日から全国中等学校優勝野球大会の会場として利用されることとなったのです。

鉄道会社が自社で発電し、さらに沿線に電力を供給?!

電車を走らせるために必要な電力は、自社の発電所から供給。この電力を活用し、鉄道開業3年後の1908年には電灯電力供給事業を開始します。1921年には家庭にも供給を始め、阪神間(今の大阪市西部から神戸市東部まで)の広域でほぼ独占的に事業展開しますが、第二次世界大戦中の1942年に、関西配電への移管をもって終わりを告げることとなりました。

第2回 大阪・神戸両市内延伸などで路線を拡充、戦争で多くの事業が統制対象に

1925(大正14)年~1944(昭和19)年

国道線の開通と梅田・三宮への地下線での乗入れ

1919年に阪神間を結ぶ新国道の建設が決定されると、阪神電気鉄道(株)は並行する新国道上の軌道敷設を出願、1927年に阪神国道電軌(株)により国道線を開通しました。一方、阪神本線は、軌道条例適用のため併用軌道とした区間が高速運転の支障となっていましたが、1933年に最後の併用軌道区間である岩屋〜三宮間の地下線が完成し、梅田〜三宮間が35分で結ばれることとなりました。1936年には当時の神戸市中心地・元町へ延伸。さらに大阪側でも新たに建設される地下鉄との連絡のため御堂筋まで延長することとなり、1939年に現・大阪梅田駅の位置に4線を擁する地下駅が営業を開始しました。

堀啓次郎社長(当時)直筆による「技補天※」「和風通※」の扁額(岩屋駅地下線入口)
※技補天:工事や技術に関する取組みの姿勢、和風通:快適なサービスや乗り心地の提供

甲子園地区の総合的都市開発と六甲山レジャー事業の展開

阪神電気鉄道(株)は、甲子園地区に42万坪以上の用地を確保し、総合デベロッパー事業を展開します。経営地を貫く甲子園線を開通させ、野球場に続き海水浴場、庭球場、プール、南運動場を相次いで整備。1928年に住宅分譲を開始し、商業的な成功を収めると、1929年には阪神大博覧会の会場設備を利用した甲子園娯楽場(のちの阪神パーク)を開設。映画場や動物園、水族館を備え、多くの来場者で賑わいました。1930年に開業した甲子園ホテルは、建築美と庭園美を併せ持つ阪神間の社交クラブとして象徴的な存在に。そして1935年には、甲子園球場を本拠地とするプロ野球チーム・大阪野球倶楽部を設立し、大衆娯楽として人気を博すこととなります。早くから避暑地として着目していた六甲山では、1927年に表六甲中心部を買収したあと、六甲越有馬鉄道(株)を傘下に収め、1932年に六甲ケーブルを開業。別荘地の分譲、高山植物園・カンツリーハウスの開設、旅館・ホテルの建設、山上循環バスの運行などを次々と手掛けました。

戦前の阪神パーク

戦時下で武庫川線が開業する一方、多くのレジャー施設が休止に

戦時体制で新規投資がままならない中、軍需路線として1943年に武庫川線武庫川〜洲先間がわずか100余日の突貫工事で開業。翌年には省線(現・JR)と接続し、貨物輸送を開始しました。一方で、甲子園地区では阪神パークと水族館、南運動場、国際庭球倶楽部が閉鎖。球場は鉄傘が撤去されることとなりました。六甲山ではゴルフ場が閉鎖し、ホテルが廃業に追い込まれたほか、六甲ケーブルも不要不急線として休止となりました。

武庫川線武庫川停車場(三線軌条式)

第3回 大型車両の導入やビル賃貸事業など、戦災からの復興と事業の多角化を推進

1945(昭和20)年~1964(昭和39)年

輸送力の回復と需要獲得

戦争と、それに続く火災や風水害により、1945年10月末の可動車両はわずか55両となりましたが、同年12月には他社に先駆けて急行運転を再開。1947年には急行の5両運転も再開するなど、車両復旧による輸送力の回復に懸命の努力がなされました。1954年には阪神電気鉄道(株)初の大型車両3011形を新造し、梅田〜三宮間をノンストップ25分で結ぶ特急を運行。1958年には加減速性能に優れた「ジェット・カー」と呼ばれる普通用車両5001形(初代)を導入しました。また、戦後直後から計画されていた難波延長線は、1964年に第1期の千鳥橋〜西九条間が開通しました。阪神直営・グループ会社による経営を合わせて、バス事業にも積極的に進出し、次々と路線を延長。1964年には大阪国際空港〜梅田・三宮間で、空港連絡バスの運行も開始しました。

1954年に登場した大型車両3011形

阪神航空と阪神百貨店が誕生。ビル賃貸事業へも進出

終戦で日本企業による航空事業が禁じられ、1947年に外国航空会社の乗り入れが始まると、GHQにより阪急、近鉄、西日本鉄道(株)、日本通運(株)とともに代理店にふさわしい企業に選ばれ、1948年に「阪神航空」が航空貨物代理店の営業を開始しました。1951年には国内線を開設した日本航空(株)と代理店契約を結び、業務渡航の市場開拓に努めるとともに、国内航空券や海外旅行の販売を行いました。1940年に大阪駅前の地下で開業した阪神マートは、戦後、相次いで売場を拡張。1951年に店名を「阪神百貨店」と改めると、斬新な売場構成をとる百貨店として順調に発展し、1963年には入居する大阪神ビルが完成しました。1953年には焼け跡で残っていた旧梅田停留場に9階建ての新阪神ビルを建設し、ビル賃貸事業に進出。「春風を切る白亜」のビルは、浪速っ子の耳目を引く存在となりました。

1963年に完成した「大阪神ビル」

甲子園阪神パークの人気者「レオポン」

中断していた甲子園球場の全国中等学校優勝野球大会は、関係者の働きかけでグラウンドなどが接収解除となり、1947年3月に再開されました。1950年、球場隣接地に再建された甲子園阪神パークは、本格的な遊園地として関西一円の子どもたちの人気の的に。1959年には雄ヒョウと雌ライオンの間に2頭、1961年には3頭の「レオポン」が誕生し、マスコット的存在として多くの方に親しまれました。六甲山は、1949年に六甲高山植物園や六甲山カンツリーハウスが営業を再開すると手軽な避暑地として行楽客が増加し、大衆の山へと変貌していきます。1956年の国立公園編入により、事業は観光の側面を一層強め、「回る十国展望台」や「六甲山人工スキー場」などを相次いで整備しました。

甲子園阪神パークに誕生した2頭のレオポン

第4回 高度経済成長期における鉄道近代化と関連事業の展開

1965(昭和40)年~1984(昭和59)年

神戸高速鉄道の開通と鉄道諸施設の近代化

鉄道事業では、1968年に神戸高速鉄道(株)の開通により宿願の元町以西への延伸を果たし、山陽電気鉄道(株)との相互直通運転を開始しました。また、沿線自治体と共同で西灘~石屋川間、大物~姫島間などの高架化を進める一方、1975年には併用軌道線の営業を終了しました。さらに、ATS(自動列車停止装置)やPTC(列車運行管理システム)の導入、踏切の自動化などにより安全性の向上に取り組むとともに、出札業務、改札業務の機械化、1983年には大手民鉄初となる全車冷房化を果たすなど、快適な輸送の提供に努めました。1984年には武庫川団地居住者の通勤・通学の足を確保するため、武庫川線洲先~武庫川団地前間を延伸しました。

神戸高速鉄道 旧神戸トンネル西側扁額「咸宜道(かんせんどう)」「みな宜ろし」の意。神戸高速鉄道(株)の性格と使命を簡単に浮き彫りにした。(同社蔵)

開発ブームによる沿線外への進出

不動産事業においては、梅田地区に西阪神ビルを建設。当初は全館賃貸ビルとして計画されましたが、大阪万博を控えホテルが不足するとの予測から、急遽ホテルを併設することとなり、1967年にホテル阪神が開業すると期待以上の営業成績を収めます。宅地分譲については、開発余地が失われつつあった沿線から沿線外へと重点を移していきました。1970年代初頭には日本列島改造論をきっかけに開発ブームが起こり、大手私鉄各社が沿線にとらわれずにテリトリーを広げる動きがみられました。阪神電気鉄道(株)においても、不動産開発事業の本格展開を目指し、広く西日本全体を視野に調査・研究がなされ、岡山、鳥取、島根、兵庫県北部でリゾート、ホテル、国民宿舎、別荘などの開発を行いました。

西阪神ビル竣工

遊園地間の競争激化に対抗

戦前から営んできた香櫨園と甲子園の海水浴場は、高度経済成長による海水汚染で閉鎖することとなり、1964年、阪神パークに代替となるデラックスプールをオープンしました。その後、遊園地間の競争が激化してきたことから、1971年にはアイススケートリンクを開設。さらに園内一周モノレール、大観覧車、ジェットコースターなどの大型遊具の導入やデラックスプールの拡充にも取り組みました。1979年には併用軌道線の浜田車庫跡地を活用し、阪神タイガース練習用の浜田グランドを整備。さらに、阪神甲子園球場の施設改良に多額の投資を行った結果、公式戦入場者数は大幅に伸長しました。六甲山では、天候による入場者数の変動を克服するため、フィールドアスレチックなどの施設を設けたほか、1978年からは人気ミュージシャンによるコンサートも開催しました。

阪神パーク園内

第5回 震災を乗り越え、西梅田開発を完遂。新事業でさらなる業容拡大を図る

1985(昭和60)年~2004(平成16)年

鉄道線路立体化の進展と阪神・淡路大震災からの復興

自動車交通量激増による踏切除去の要請を受け、西宮市内、野田〜梅田(現・大阪梅田)間、尼崎市内などで立体交差化を順次進めます。野田〜梅田間は新たな地下線に切り替えたことで、西梅田地区の土地の一層の有効利用が図れることとなりました。1995年1月17日早朝、阪神・淡路地域を襲った大地震は、阪神グループにも鉄道事業を中心に大きな被害をもたらしました。陸橋8か所が落下、営業中の2列車が脱線したほか、高架の石屋川車庫が崩壊し、車両の全半壊は126両に及びました。この難局に際し、懸命の復旧作業で翌18日には梅田〜甲子園間、西大阪線で運転を開始。160日後の6月26日には全線で運転を再開し、市民生活の維持に努めました。その後、1996年には「スルッとKANSAI」のストアードフェアシステムを導入し、プリペイドカード「らくやんカード」を発売。1998年には、山陽電気鉄道(株)との相互乗入区間を延長し、梅田〜山陽姫路間で直通特急の運転を開始しました。

1993年の野田〜梅田地下化に伴い、1939年の大阪駅前地下延長線開通時の扁額を移設。「萬方慶」は「皆さんに喜んで頂ける」の意味で、社長今西与三郎(当時)が揮毫。

西梅田の街づくりに積極的に参加

国鉄の貨物部門縮小で大阪駅南西の梅田南コンテナヤードが廃止されることとなると、阪神電気鉄道(株)では野田〜梅田間の鉄道線路の地下化などと合わせ西梅田地区における大阪の新しい玄関口にふさわしい街づくりに乗り出します。1992年には、オフィス・ホテル・商業・文化を複合した全体構想を発表するとともに、ラグジュアリーホテルのザ・リッツ・カールトンと提携。着工2年後に阪神・淡路大震災に襲われますが、建設工事への被害はなく、当初計画どおり1997年に「ハービスOSAKA」を開業します。さらに、2004年には「ハービスENT」を開業し、社運を賭けた大事業は完成をみることとなりました。

ハービスENT開業時の西梅田

多彩な関連事業の展開

阪神タイガースは、1985年に21年ぶりのセ・リーグ優勝を果たし、さらに西武ライオンズを制して日本一に輝きます。阪神甲子園球場の入場者数は260万人を超え、タイガースのブランド価値は急上昇しました。1990年には、ジャズクラブ&レストラン「大阪ブルーノート」を大阪桜橋に開業(その後ハービスENT内に移転し、現在は「ビルボードライブ大阪」として営業)。1991年には、都市型ケーブルテレビ事業に参入します。六甲山では、1994年にオルゴールミュージアム「ホール・オブ・ホールズ六甲(現・ROKKO森の音ミュージアム)」を、2003年に「六甲ガーデンテラス」を開設し、集客力向上に取り組みました。一方、阪神パークは、1990年から幼児向けに特化したものの、入場者数減が止まらず、1997年に「阪神パーク甲子園住宅遊園」としてリニューアルオープンしましたが、2003年に惜しまれつつ閉園。跡地は「ららぽーと甲子園」に生まれ変わりました。

阪神パーク甲子園住宅遊園

第6回 ビッグプロジェクトが次々に完成!信頼と期待のその先を目指して

2005(平成17)年~2025(令和7)年

待望の阪神なんば線開業

2003年、長らく中断していた西九条〜近鉄難波(現・大阪難波)間の西大阪延伸線建設工事を再開。2009年に阪神なんば線が開通し、近畿日本鉄道(株)との相互直通運転を開始しました。沿線活性化の取組みを開始したのもこの頃。念願のミナミへの乗入れ、ミッシングリンク解消により、広域的な旅客流動が生まれ、今も利用者が増加しています。自動車事業は2009年に阪神バス(株)として完全分社化し、2016年には尼崎市交通局の全路線を譲り受けるなど、阪神間の重要なフィーダー交通として存在感を発揮しています。

阪神なんば線のトンネル入口に掲げられた扁額。「紹復大業」とは、前の時代からの偉大な事業を継承して、この先の世の中を安定、発展させるの意。西大阪高速鉄道(株)本庄義信社長(当時)の揮毫。

夢・感動を届け続けるスポーツ・エンタテインメント事業

「阪神甲子園球場」では、2007年からリニューアル工事を行い、2010年の竣工に合わせて「甲子園歴史館」をオープン。開場100周年を迎えた2024年には、これからも野球の聖地として歴史を紡いでいくことを目指し、銀傘をアルプススタンドまで拡張する構想を固めました。2025年には、ファームチームの練習場や選手寮などの施設を備え、環境に配慮した「ゼロカーボンベースボールパーク」を尼崎市にオープンし、さらに阪神タイガースが2年ぶりのリーグ優勝を達成しました。六甲山では、2010年に初開催した現代アートの祭典が年々規模を拡大し、「神戸六甲ミーツ・アート」は秋の恒例イベントとなっています。2021年には、日本最大級のアスレチック施設「六甲山アスレチックパーク GREENIA」を開設したこともあり、なお多くの方が山上を訪れています。
(株)阪神コンテンツリンクでは2006年に「ビルボード」マスターライセンス契約を締結し、様々な分野で音楽事業を開始。また、2024年には、日本文化の奥深さを紹介するインバウンド向けの相撲エンタテインメントショーホール「THE SUMO HALL 日楽座 OSAKA」を開業しました。

ゼロカーボンベースボールパーク

持続可能な社会の実現に向けて

2006年に阪急グループと経営統合したことで、阪神百貨店のあった大阪神ビルを新阪急ビルと一体で建て替える「梅田1丁目1番地計画」が始動。2022年、大阪の玄関口にふさわしい、快適で質の高い街づくりに資する「大阪梅田ツインタワーズ・サウス」が誕生しました。さらに2024年には大阪梅田駅の改良工事も完了しました。新規事業の創出にも積極的に取り組んでおり、社内起業支援制度から「登下校 ミマモルメ」や「プログラボ」、「はんしんいきいきデイサービス」などが生まれています。1905年に大阪~神戸間で鉄道営業を始めて120年。多彩な事業を展開する阪神グループは、これからもみなさまの「“たいせつ”がギュッと。」つまったモノやコトを生み出し、お届けしていきます。

大阪梅田ツインタワーズ・サウス