元湯・天然温泉築地戎湯
(尼崎駅・大物駅)

おじいちゃんが一番幸せだった一日銭湯を再開できた日

震災後、客足が減ったので、店を閉めた方がいいんちゃうか?って思ったこともありました。でも、銭湯一筋で商売してきた人間やからね、どうしてもこの商売を続けたかった。悩みに悩んで、どうせ続けるなら温泉掘削をして、銭湯の全面リニューアルをしてみようってなりまして。それから一年かけて、ボーリング業者さんに温泉掘削をしてもろたり、建物を再建したりして、2002年4月20日に無事、再オープンを迎えられたわけです。

当時は温泉のある銭湯も少なかったのと、うちみたいに軽食とかも食べられる銭湯ってのが少なかったこともあって、テレビやら新聞やらにも取材してもらって。遠方からもわざわざお客さんが来てくれる銭湯になったんですよ。今はだいぶ客足も落ち着きましたけど、毎日楽しみにしてくれはるお客さんもたくさんいはるからね。これからも街中の憩いの場として、頑張っていかなあかんなって思っています。

辻野兼司 78歳

おばあちゃんが一番幸せだった一日初孫が生まれた日

初孫っていうのはやっぱり特別でしてね。その日もいつも通り仕事をしてたんやけど、息子から「陣痛が始まった」って電話で聞かされて、病院へ飛んで行ったんですよ。そこまで時間がかからず産まれてくれるんかなぁなんて思ってたんですけど、それが難産でね。孫のことはもちろんやけど、息子のお嫁さんのことも心配でね。入院してから3日後の2000年2月16日に産まれてきてくれました。

初産やのに頑張ってくれた息子のお嫁さんへの感謝の気持ちと、難産やったけど、母子ともに健康であったこと、それに加えて初孫が生まれた喜びも相まって、ものすごい感動したんを覚えてます。そんな孫も、今は大学生になって寮生活の真っ只中。スポーツ漬けの毎日になって、なかなか会われなくなってしまったけどね。それでも一生懸命頑張ってるって話を聞くだけで、おばあちゃんも頑張らな!と、思えるんですよね。

辻野スエ子 72歳

世界長 新開地直売所
(新開地駅)

おじいちゃんが一番幸せだった一日商売を再開できた日

1995年の阪神大震災で店が半壊して、もう商売もできひんくなるなってうなだれていたんです。それから4日後やったかな、毎日来てくれはる常連さんから「あれ?店やってへんの」って言われまして。そのとき、休んでたらあかん!って発破かけられた気がしました。

すぐに、左官してはった妻の兄さんに「店の修理をしてもらわれへんやろか」と、頼み込んだわけです。兄さんは山形に住んではったのに、あくる日には新開地まで来てくれて。それから一家総出で工事を進めて、二週間後には店を再開できるまでになりました。

再オープンの日は「ほんまにお客さんが来てくれはるんやろか」って夫婦共々不安やったけど、店のオープンと同時に常連さんがわーっと来て、あっという間に店は満員状態。その日から、あのとき支えてくれた常連さんたちのためにも、店に立ち続けなあかんって思うようになりましたね。

岸田耕治 75歳

おばあちゃんが一番幸せだった一日息子が生まれた日

このお店を開店したのは1962年の1月15日。当時私は妊婦やったから、「商売をするなんて無理や!」ってお父さんにも言うてたんです。せやから、開店当時はいつも泣きながら調理場にいたのを覚えています。それから数ヶ月後、いつものように店の開店準備を進めていて、ある程度仕込みが終わった頃やったかな、急に陣痛が来て病院へ向かったんです。

そこから、1週間入院して無事に出産できました。産まれてすぐに、こんな状態でお店が出来るんかなって不安もよぎったけど、生まれた感動のほうが断然大きくてね。「息子のために一生懸命頑張らな!」と、涙を捨てて強い母ちゃんになりました。

それから50年以上経った今は息子たちに店を任せ始めて、私らはサポートに回ってます。せやけど、今でも私たちに会いに来てくれはるお客さんも多くて。元気でおれるうちは、お父さんと一緒にお店に立ち続けていきたいですね。

岸田志子 74歳

大安亭市場 オリンピック製麺所
(春日野道駅)

おじいちゃんが一番幸せだった一日お店の移転オープンの日

阪神・淡路大震災で、お店があった商店街が全壊になってもうて。落ち込んでばっかりじゃあかんから、すぐにお店ができる場所を探したんや。どこの商店街も全壊とか半壊でね、運良くここの場所が見つかったときは、ほんまに嬉しかったなぁ。当時はまだ景気が良かったから、銀行さんがようけ融資してくれはって、無事にお店をやれることになった。

オープン日は震災から半年後の1995年の8月。朝4時半から店へ行って、ギリギリまで麺をこさえたわ。しかも、開店日は出血大サービスで麺1玉10円で売るいうことにしてたから、1000人前くらい用意せなあかんくてね。そらぁもう大変でしたわ。でも、準備が終わったあと、お店が再開できる喜びで、疲れがふっとんだんを覚えてます。私らはもう歳ですけど、その日に来てくれはったお客さんの中にはいまだに買いに来てくれる方もいてはる。せやから、私らも元気にお店開けて顔を見せなあかんって思っとるんですわ。

光山和秀 75歳

おばあちゃんが一番幸せだった一日旦那の安否が確認できた日

阪神・淡路大震災の当日、お店で仕込みをしてる最中にドーンって揺れがきてね。そらぁもう驚きました。何が起こったんかわからんしパニックですわ。真っ暗になって、旦那 の声が全然聞こえへんし、名前を呼んでも全然返事がないしで。何かの下敷きになったんちゃうかって。そういう悪い事ばっかり考えてたら自然と涙が流れてきました。30分くらい呼び続けたらようやく「生きてるで〜」って返事があったんです。旦那が言うには10分くらいらしいんですけどね、動揺してましたからほんまに長く感じました。

一緒に外へ出て、明るい場所で旦那の顔を見て、ほんまに無事で良かったなぁって思った。運が悪かったらそのとき二人とも死んでもうてたかもわからんからね。でも、震災を恨んだことはない。困難を乗り越えたからこそ強くなれたし、お店が続けられることのありがたみがわかったからね。もちろん、これからも二人三脚でがんばりますわ。

光山清美 74歳

三和本通商店街 小椋商店
(尼崎駅、出屋敷駅)

おじいちゃんが一番幸せだった一日息子が東京芸大に受かった日

うちの息子は、東京に一人で行って、一生懸命受験勉強して。昭和53年に東京芸大に受かったんよ。私らは仕事が忙しくて、息子には小さい時からなんもしてあげられへんかったけど、なんでか、息子は小学生くらいから美術が好きやって、市で表彰されたり、百貨店で表彰されたりしてた。言葉では言わへんかったけど、誇らしかったなぁ。合格発表の日も私らはいつもどおりお店でたい焼きを焼いとるときに、電話で息子から「受かったで」って報告されてな。ものすごい嬉しかったのを覚えてる。なんかしたわけではないんやけど、息子の頑張りが評価されたんが嬉しかったんやな。

その日はいろんな常連さんがお店に来てくれはったり、商店街の人が立ち寄ってくれはって、「おめでとう!」って、ようけ言ってもらえた。自分のことやないけど、いろんな人が息子のことを思ってくれてはったってわかったのが、今でも心に残ってるわ。

小椋武美 83歳

おばあちゃんが一番幸せだった一日お店を開いた日

昭和42年にダンナがケガをしてもうて、会社勤めができなくなったんです。それで屋台でたい焼きでもやろか、いうことになったんです。あんこも生地も初めから必死に勉強しましたわ。最初はそれだけじゃ生活でけへんので、たい焼きの他にもバスタオルなんかも売ったりして、売れるものはなんでも屋台に出して売ったわ。試行錯誤の毎日でそれはもう大変やってんよ。

軌道に乗ってからしばらく色んな所で売ってたんやけど、お父さんももう歳で売り歩くのが大変やから、11年前からここでお店を構えるようになりました。

お店を開いた日は、今まで色んな所で買ってくれたお客さんがようさん遊びに来てくれはって、「ええところ見つかって良かったなぁ!」って言うてくれはって。今まで続けてきてほんま良かったぁって思いました。

小椋綾子 82歳